歴史の新事実

歴史の新事実、新常識をお伝えします

西郷隆盛は本名ではなかった!

 

明治維新を主導した西郷隆盛

 

日本人なら誰もが知る名前だが

 

なんと彼の本名は西郷隆盛ではないのだ。

 

それも隆盛が愛称だったなんてレベルではなく

 

隆永という本名があるにもかかわらず

 

父親の名前である隆盛を名乗っていたのである

 

そのきっかけは明治初期、維新功労者への叙勲のため

 

書類が作成されたときのことである

 

当時は幼名や愛称など複数の呼び名が多く

 

本名が知られていない場合が少なくなかった

 

西郷もその1人で、あいにく本人は遠征中で

 

不在だったため本名がわからなかった

 

そこで西郷の友人に尋ねることになったが

 

その友人も普段から吉之助と通称で呼んでいたため

 

名前を思い出せず、それどころか誤って

 

西郷の父親の名前を伝えてしまった

 

ということで隆盛の名前が定着してしまったのだ

 

だったら自分で直せばいいのにと思ってしまうが

 

なぜか西郷自信が特に反対しなかったのだという

 

 

 

 

 

 

織田信長は比叡山を全焼させてなかった!

 

 

自ら第六天魔王と名乗り残忍な性格を裏付ける行為といえば

 

1571年の比叡山延暦寺焼き討ち事件だろう

 

火は比叡山全体に燃え広がり、抵抗する者は女子供も容赦なく斬り殺した

 

400棟近くの寺社塔が焼失し犠牲者は数千人にも及ぶ大虐殺だった 

 

しかしこれらのエピソード、実は大幅に誇張されているのだ 

 

信長が比叡山の焼き討ちを行ったは事実だ

 

当時敵対していた浅井氏、朝倉氏が比叡山とつながりがあったため 

 

信長は比叡山を敵視していた

 

比叡山側も信長が比叡山領を奪ったことで敵意を抱いていた

 

戦略上比叡山を敵にすべきでないと考えた信長は何度か[こちらの味方になれ]と 

 

伝えている それでも比叡山が頷かなかったため焼き討ちにでたのである

 

山一つ丸ごと燃やし、いくつもの堂を焼いたように言われていたが

 

滋賀県比叡山の発掘調査を行ったところ

 

焼土層があまりみつからず戦国時代の遺構も発見できなかった

 

焼き討ちで失ったとされていた建造物は、戦国時代以前に焼失していたことが

 

わかったのである

 

つまり織田信長が行ったのはボヤ騒ぎ程度の建物への放火だったのだ

 

虐殺されたとされる多くの僧侶も焼き討ち当時は山を下りて別の場所に

 

いたという記録もあり、こちらも誇張である可能性が高い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                     

楽市楽座を始めたのは織田信長ではなかった

従来の商人の組合をなくして独占権を奪い

 

多く商人が自由に商売をできるようにした政策

 

楽市楽座これを始めたのが織田信長だと言われているが

 

それは間違いだ

 

信長よりも早い1549年に近江の武将 六角定頼が

 

自らの領地内にある観音寺城城下町で楽市令を出したのが初めだそうだ

 

楽市楽座という制度はそれまでの商人のあり方を変える画期的な

 

システムだったため信長ならば人が思いつかないような発想を持つていたはずだ

 

という後世の人々によって織田信長の手柄になってしまったのだ。

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信長は秀吉を猿と呼んでなかった!

 

みなさんも信長から猿と呼ばれた秀吉が嬉々として返事をする姿を

 

ドラマなどで見たことがあるのではないだろうか

 

しかしそんなお馴染みの光景とは裏腹に

 

信長が秀吉のことを猿と呼んだという記録はない

 

信長が秀吉の妻ねねに充てた書状では浮気を繰り返す秀吉のことを

 

はげねずみと記しているが、これが普段の呼び名であるかは不明である

 

では猿というあだ名が空想だったのかというとそうでもない

 

同時代の史料には秀吉が猿ににていると記したものが多く残っている

 

そのため江戸時代に入ってからはそのイメージが更に促進されて

 

信長と結び付けられたのだろうか